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宮本常一 (1964)
さきにものべたように狩人はただ野獣や鳥をとるだけでなく、ときには川の魚もとりつつ回帰的な移動をこころみている。
そして移動を事とするために農耕技術におくれていた。
そして食物も野生物を採取して、まかなうことが多かったのであるが、たぶんおなじ狩猟民であったと思われるもののうち、主として川魚をとって生計の資にあてたり、野生物を加工して生活用具をつくる仲間が、狩猟を主とする者からわかれていったと見られる。
今日サンカとよばれているものである。
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昭和14年から18年にかけて、私は全国にわたって歩きまわったが、山中でときおりこの仲間に会うことがあった。
大和吉野の山中や四国の仁淀川・吉野川の流域では幾組もの仲間に会うた。
川原に本当に粗末な小屋掛けをしてくらしており、いずれも川魚をとっていたが、それは秋田マタギが秋田の山中で川魚をとっているさまと何ら変りはなかった。
川魚をとることを主業とする者は早くから平地にも住んだであろうが、狩猟を主としていた者が、山中から下って川のほとりに住むようになった者もまたすくなくなかったと思われる。
秋田角館で会うたマタギも、もとは檜木内の奥を重要な稼ぎ場としていたが、後には角館に近い玉川のほとりで、鵜をつかって川魚をとることを主にするようになっている。
この方が山中で獣を追うよりは能率も上ったのである。
もともと山地を重要な稼ぎ場としたから、この仲間は奥深い山のある地方に多く居住した。
九州の脊梁山脈、四国の脊梁山脈、播磨西部山中、吉野・熊野山地、白山を中心にした美濃・越前の山中、関東の秩父山塊などにはとくに多かったようである。
それが狩人仲間から分離していったについてはこの仲間には政治的な保護の加えられることのなかったためと思われる。
狩をする者のうち、その上層部の少数の者は猟銃など与えられて領主の保護もうけ、長く狩猟をつづけることもできた。
そしてまたそれらの人びとは百姓の農作物を野獣の被害から守る者として百姓仲間から尊敬の目で見られていたが、それは大ぜいの狩猟民のうちのほんの少数にすぎず、大半の狩猟民はむしろ零落の一路をたどっていたものと見られる。
中には農耕に転じていった者もあったが、その古くから持ち伝えた技能は、農にしたがうようになってもなお消えず、川魚をとったり、竹細工や莚細工で生活用品をつくりつつ売り歩いたりするために、純粋の百姓村から特殊な目で見られてきた者が多かった。
定住するにもまた条件があった。
農耕に適する地が与えられることはすくなかった。
そういうところは一般の百姓がもう大方ひらいていた。
私は昭和37(1962)年10月、九州阿蘇山の南麓矢部の町でサンカについて土地の郷土史家井上清一氏から興味深い話を聞いた。
この話は今後相当の時間をかけて実地に調査し、もっと事実をたしかめなければならないのであるが、一応ここにのべることにする。
九州山脈の中でサンカの多いのは宮崎県北部の山中であるという。
米良・椎葉郷から北につづく部分である。
そのうち諸塚の七ツ山付近の人びとは古くから回帰性移動をおこなっていたという。
この地方は山の深いところで、山と山との間には峡谷が食い込んでおり、山の中腹から上にやや平らなところがあって、そこに5戸・10戸と人びとは家をたてて住んでいる。
この地方では道の多くは尾根の上を通っている。
車の通う道ができるようになって道は谷に下ったのだが、そのため山腹の村はかえって急坂を上ったり下ったりしなければならなくなった。
もとは山の尾根なり山腹を横に行く道があって、そこを通っていたから、山中に住んでも、それほどけわしい坂道を通らなくてもすんだという。
この山中はいま歩いてみても、そこに住んでいるだけでは、とうてい生活のたちそうなところではない。
傾斜面の雑木を伐って焼いて作物をつくっても、それで食うに足りるだけのものを得ることはむずかしいであろう。
イノシシの多いところなので、それをとって皮も売るというが、それすら狩の獲物でどれほどの生活物資を手に入れることができるであろうか。
所詮は山刀一つをたよりに竹を割り、蔓草を切って編んで、竹籠や箕や篩をつくって売るのが比較的有利であった。
いつこの山中を出て里の村々をどう歩いてくるかわからないが、毎年5月20日に矢部の町の北部を商から東へ通りすぎる一組がある。
この地方の人の伝承によると、それはすでに何百年もつづいているものではないかという。
山中に小屋をつくってそこに起居し、村々の農家を歩いて箕・籠を売り、またいただくものを修理する。
しかし、その修理を民家の軒下でおこなうことは絶対にない。
彼らの仮小屋に持ってかえるか、または人里はなれた大きな木の下、神社の境内などで修理する。
きれ物といってはまったく山刀一本を使用して仕事をするのだが、神技に近いといっていい。
矢部の付近には一週間近くいて、仕事を終えると5月27日ごろ、東方へ移動していく。
その行動は毎年ほとんど狂いなくつづけられている。
ただ彼らの仮小屋は毎年場所がすこしずつちがう。
したがって、その仮小屋を彼らがやってきたときにつきとめることはできない。
が、立ち去ったあと山中を歩いていると、竃のあとを発見するのでそれとわかる。
竃は石できずいである。
その竃の大きさによって群の大きさを推定することができる。
この仲間の通った道すじにはクマザサの葉がうず高くすてられていることがある。
茎をとったのである。
茎は籠の材料にする。
また箕などにする木を伐ったあとも見られる。
村の百姓たちはサンカの仲間の生活を知ろうともしなければ、その生活に立ち入ろうともしないが、それが日向の七ツ山地方から来た者であることは彼ら自身の言葉から知ることができる。
日向の七ツ山というところは肥後馬見原の東の赤谷というところから飯干峠をこえて南にはいったところであり、馬見原の町は阿蘇の南側の裾野にあって地形もゆるやかで、古くから肥後と日向をつなぐ通路にあたっており、山の港として江戸時代には栄えていた。
そして商店も多かったのであるが、その馬見原の町の商家へ七ツ山から下女や下男に稼ぎに来る者が昔から多かった。
それがサンカであるか否かは別として、とにかくこの山中の人は郷里以外で稼いでこなければ生活はたたなかったのである。
そういうところに人の住んだのはやはり住む理由があったに違いなく、もとはイノシシ・シカなどの獲物も多かったのであろうが、別にはまた戦いに敗れた者が身をかくすのにもよい場所であった。
肥後は阿蘇山信仰を中心にして阿蘇という家が大きな勢力を持ち、それが鎌倉時代以降武力化して南北朝のころから武力抗争にまきこまれ、この山中は戦乱の巷になることが多かったが、そのたびに敗れた者がこの山中に身をかくしたようである。
そうした落人たちと、永年にわたる回帰性移動をおこなっているサンカの群との関係についてはたしかめていない。
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ただ七ツ山のサンカの仲間が,馬見原の北、五箇瀬川の上流の蘇陽峡の谷底に,今から百年あまり前から,定住をはじめる。
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台地の上に住む者は,峡谷は無縁というよりは交通を阻害して彼らに大きな不利をもたらしている自然で、この谷間の利用を考えてみることもなく、まったく捨て去られた世界であったが、その故にサンカにとっては獲物の豊富なめぐまれた天地であった。‥‥‥
そこで少々の田をつくり、畑をたがやしてトウモロコシ・ダイズをつくり、川魚をとり、また余暇には箕や籠をつくって、それを馬見原や赤谷・三井田(高千穂)などへ持っていって売った。
七ツ山よりはくらしもらくだというので、さきに住みついた者が仲間をよんで、その谷間にはだんだん家がふえて、三里ほどの峡谷に平地らしいところがあれば必ず人家を見るようになったが、谷間の村と台上の村との間に高い岩壁があることによって、二つの世界に摩擦のおこることはなかった。
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- 引用文献
- 宮本常一 (1964) :「サンカの終焉」
in『山に生きる人びと』(日本民衆史 2), 未來社, 1964
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