Up 「サンカ」 の語義 作成: 2025-01-13
更新: 2025-01-13


喜田貞吉
  「サンカ者名義考──サンカモノは坂の者」(1920)
  「サンカ者の名義に就いて」(1939)

      喜田貞吉「サンカ者名義考──サンカモノは坂の者」(1920)
    京都あたりでは一種の浮浪民を、サンカまたはサンカモノと呼んでいる。
    東山や鴨川堤などに臨時の小屋を構えて住んでいるものは、そのやや土着的性状を具えて来たものと思われるが、それでもやはり戸籍帳外のものとしてしばしば警察官から追い立てを喰って他に浮浪せねばならぬ運命を免れない
    その或るものは数年前から警察や役場のお世話になって、今は在来の或る「特殊部落」に接した地に借屋住まいをなし、別に一つの部落をなして戸籍にも編入せられ、日雇その他の労働者として立派に一人前の帝国臣民たる資格を具えることになっているが、それでもなお「旧部落民」からは、「あれはサンカじゃ」と云って、その仲間扱いにはなっていないらしい。

     京都あたりではサンカという類のものを、自分の郷国阿波などでは、オゲ或いはオゲヘンドという。
    尾張・三河あたりではポンとかポンスケポンツクなど云っているそうである。
    かの四国・九州あたりで勧進禅門西国など呼ばれる仲間にも、この徒がけだし少くないらしい。
    その現に竹細工などをして漂泊しているものに対しては、その職業によって、箕直し或いは竹細工などと呼ぶ地方もある。
    柳田君によれば、ノアイとも、川原乞食とも呼ぶことがあるという。
    またその種類によって、セブリジリョウジブリウチアガリなど呼んでいることもあるという(人類学雑誌「イタカ及びサンカ」)。

     かく地方により種類によって、種々の名前があるにしても、近来はサンカという名称で、広く彼らを総括する様な風潮になっているかの如くみえる。
    そしてその文字には、普通に「山窩」と書く様になっている。
    これは大正三年頃の大阪朝日の日曜附録に、鷹野弥三郎氏の「山窩の生活」と題する面白い読物が連載せられたのが、余程影響を与えているものらしい。
    それ以来地方の新聞などでも、浮浪漂泊もしくは山住まいの凶漢悪徒の記事などの場合には、往々「山窩」の文字を用うることになっている様に見受けられる。
    しかし彼らが山の穴住まいをなすことはむしろ稀な場合であって、柳田君も既に言われた如く、勿論この宛字は意義をなさぬ
    よしや穴住まいをしているものについての称呼だとしても、それをむつかしく「山窩」など書いて、それが俗称になったとは思われない。
     ‥‥‥

     しからばサンカとは果していかなる語であろうか。
    これについては了蓮寺伊藤祐晃師の示された泥洹ないおん之道という書に、

    三家者さんかもの位牌事
    三家(さんか)日本ニハ(さか)
    故也。


    とあるのが最も面白い説と思われる。
    この書は寛永十一年に袋中和尚の著わしたものである。
    和尚はその名を良定と云い、京都三条畷の檀王法林寺の開山で、寛永十一年の当時九十一歳の老齢であった。
    その書名の泥洹とは涅槃の義で、したがってこの「泥洹之道」は、死者の葬儀や位牌の書き方等を示したものである。
    王公卿相以下、所謂三家者の賤民の徒に至るまで、それぞれにその身分に応じて位牌の書き方を例示してある。
    その著者袋中は寛永十一年に九十一歳だとあってみれば、その生誕は天文十三 (1544) 年で、江戸時代以前の故事もかなり知っておったであろうし、特にその長年月間扱い慣れていたところから、所謂サンカモノの何であるかくらいの事は、よく通暁しておったに相違ない。
    したがって同書に所謂「三家者」を解して、

    三家者(さんかもの) 藁履わらぢつくり、秤作、弦差つるさし也。
    (そもそも) 坂者(さかもの) トハ亦云皮籃
    京覆面也。
    是諺云燕丹也。
     ‥‥‥

    と云っているのは、その当時の所伝として貴重なる文字だと言わねばならぬ。
    ここに燕丹とはエタの事である。‥‥‥
    右の袋中の記事によって、かつては藁履作りや秤作り、ないし弦差つるさしの輩をエタと云い、それをサンカとも非人とも云っていた事が知られるのは面白い。

     エタが皮作りの職人のみでなく、かつては浄人きよめ(○塵袋)をも、河原者(○蓋嚢抄)をも、青屋(○三好記雍州府志)をも、エタの名を以て呼んでいた事は、「エタと皮多」 (三巻六号) の条下にも既に説き及んでおいた事である。
    すなわちもとはその語の及ぶ範囲が極めて広かったもので、徳川時代の法令に所謂エタは、ただその中の或る限られたる一部分に過ぎないのであった。
    そして戦国時代以来の実際に通暁している筈の袋中和尚は、そのエタすなわち所謂「燕丹」を以て、藁履作・秤作・弦差の徒となし、これすなわち三家者さんかもので、或いは非人ともいうと説いているのである。
    しからばすなわちその当時にあっては、少くも京都では広く賤民の通称として、サンカモノの語を用いていた事が察せられる。

     袋中はさらにそのサンカモノの語を解して、坂ノ者の転音だと云っているのである。
    坂ノ者とはもと京都東山の五条坂あたりに居た一種の部族で、賀茂河原に居た川原者と相対して、しばしばその名が古書に見えているものであった。
    師守記貞治三年六月十四日条に、祇園の犬神人つるめそたる弦差と田楽法師との喧嘩の事を記して、

    田楽与犬神人喧嘩事
    是田楽乗馬、通犬神人中之間、無礼之由問答之馬打落云云。
    田楽人於当座殺害坂者疵云云。
    外也。

    とある。
    ここに坂者とは、明らかに上文の犬神人の事である。
    犬神人は五条坂に住んで、一方では祇園の神人であり、一方では毘沙門経読誦の声聞師であり、そしてその内職としては弦指つるさしに従事してつるめそと呼ばれ、後に或いは夙とも呼ばれた一種の賤者であった。
    師義記に、貞治四年祇園御霊会の神輿を舁いだとあるエタも、おそらくこの犬神人の事であったと解せられる。
    そして右の田楽殺害の事件はまた東寺執行日記にも見えて、
     「新座田楽幸夜叉、為 坂物 殺害云云」
    とある。
    以て当時この犬神人に対して、サカノモノの語が普通に用いられたことを知るに足ろう。

     坂の者と云い、川原者というは、共にその住居の有様から得た名で、けだし市街地または田園等に利用すべき平地に住むをえず、僅かに京都附近の空閑の荒地を求めて住みついた落伍者の謂であった。
    そして掃除・警固・遊芸その他の雑職に従事し、或いは日雇取を業としておったものであった。
    これらの徒は地方によって、或いは山の者・谷の者・野の者・島の者・堤下どてしたなどとも呼ばれているが、いずれも皆同一理由から得た名と解せられる。
    その坂の者という名も、必ずしも京の五条坂の部族のみに限った訳ではない。
    蔭涼軒日録文正元年二月八日条には、有馬温泉場の坂の者の名も見え、大乗院寺社雑事記には応仁・文明頃の奈良符坂寄人ふさかよりうどの事を坂衆・坂座衆、或いは坂者などとも書いてある。

     かく地方によって種々の名称があるにしても、結局は同情すべき社会の落伍者等が、都邑附近の空閑の地に住みついて、種々の賤業にその生活を求めたものであって、特に京都では坂の者河原者の名で知られ、それが通じてはエタとも、非人とも呼ばれていたものであったのである。
    そしてその称呼は時に彼此ひし相通用し、その実河原者をもしばしば坂の者と呼び、坂の者をも或いは河原者と呼ぶ事にもなったらしい。
    しかるに後世では次第にその分業の色彩が濃厚となって、河原者の名がその実河原住まいならぬ俳優のみの称呼となったが様に、坂の者の名がサンカモノと訛って、特に漂泊的賤者の名として用いられることになったのであろう。
    賤者の名称が同じ程度の他のものに移り行く事は、もと主鷹司の雑戸なる餌取えとりの名が、エタと訛って浄人きよめ・河原者等にも及び、はては死牛馬取扱業者にのみ限られる様になった例もある。
    その京都の坂の者の後裔はつるめその名を以てのみ呼ばれて、本来の坂の者の称を失い、かえってその転訛たるサンカモノの名が、別の意味において用いられる様になったのも、必ずしもあえて不思議とする程ではない。
    かくて近時に至っては、オゲ・ポンスケなど呼ばれた他の地方の漂泊民にまで、その名が広く普及しつつあるのである。

     坂の者がサンカモノと訛ったとの袋中の説は、最も信用すべきものとしてこれを祖述するを憚らぬ。
    彼らの本来坂の住民たりしことが忘れらるるに及んでは、それが訛りの多い京都人によってサンカモノと転倒して呼ばるるに至ったものと思われる。
     ‥‥‥
     これを要するに、サンカモノとは本来坂の者の義で、寛元二年の奈良坂非人文書(四巻一号四頁及び本号〔「民族と歴史」四巻三号〕一九頁)に見ゆる鎌倉時代の清水坂の非人の称であった。
    しかるにそれが室町時代には主として祇園の犬神人の名に呼ばれることになったのは、彼らが、もしくは彼らの一部が、南都末の清水寺から離れて北嶺末の祇園感神院の所属となり、犬神人として著名になった為であろう。
    かくて、それが一般賤者の上に及んで、京都では徳川時代の初期までも広くエタ・非人等の通称として用いられ、後にはその一部たる漂泊生活の最落伍者の称呼となったものと解せられるのである。
     ‥‥‥