生涯学習教育推進の類型的な論は,「このような社会状況に置かれた人間の行動はこうなるはずだ」という推理を述べる。そして「このような社会状況」として挙げられるのが,(すっかり「改革」用語になってしまった) つぎのものである:
- 高齢化社会
- 自由競争社会
- 能力主義社会
- 学歴の無効化
- IT社会
これらは,つぎの意味での<フィクション>である:
人は,自分にとっての対象をつくる。
対象は,人の目的的・都合的な解釈である。
ここで「目的的・都合的」とは,解釈には「行動の指向設定」の意味があるということ。
これらがどのようなフィクションであるか,ここで間単に押さえておく:
- フィクション :「高齢化社会」
──これには,つぎの2タイプがある:
- 高齢化社会の問題は「労働力不足」「若年層の負担増大」であるが,こうならないために,高齢者を貴重な労働力として経済の発展に活かすことが必要になる。
実際,高齢者には,長く生きてきた分,経験や知識が豊富だという強みがある。
また,ITに代表される今日の技術の進歩は,高齢者が若者以上に働ける領域を創出する。
この意味で,高齢化社会は「生涯労働社会」である。
- 高齢化社会は,仕事からリタイアして生活に余裕を得た高齢者が,充足した生き方を求める社会である。
統計に見る「高齢化社会」
- フィクション :「自由競争社会」
時代は,従来の規制を外し,自由競争を許容する方向に進んでいる。さまざまな分野,領域で,このことが起こっている。
従来型は,突出をたたき横並びを保持しようとする組織風土,リスクや変化を嫌う組織風土と相まっている。
実際これまでは,ローリスク・ローリターンが通用したので,リスクのあることが変わることをしない理由になり得た。
しかし自由競争の社会では,しっかり変われないことは死を意味し,そして変わるためにはハイ・リスクを引き受けねばならない。変わることはこの場合チャレンジである。そして,チャレンジしないことは「座して死を待つこと」と同じになる──これまでなら「後塵を拝する」で済んだが。
これからは,アタマは,リスクを数え上げることにではなく(リスクは言われなくてもわかっていることだ),生きる方策を立て,実行することに使わねばならない。
「自由」とは「手本がない」こと。自分が手本をつくる。頼むべきは自分。
手本を頼む(指示や前例や周りにあわせる)ことに慣れてきた者には,ますます生きにくい時代になっている。
- フィクション :「能力主義社会」
従来型発想では,企業は長く続くことがよしとされてきた。しかし国際化・競争化の環境激変の中にあっては,企業短命は普通のことになる。企業を目的ではなく手段と考えるなら,企業短命の戦略さえ立ち得る (例:「インキュベーション」)。
企業の長命が保証されることではなくなり,また絶対視もされないとなると,終身雇用/年功序列は無意味化する。また,いまは危機感ややる気の喚起が必要な「変化の時代」であり,この中にあっては,能力主義が推進される一方で,終身雇用/年功序列は企業活動の障害になってくる。
個人が企業を利用する時代が始まっている。これからは,「キャリアアップ」が「企業就職」の意味になる。逆に,この「キャリアアップ」の考え方を受容し,逆用できない企業は,これからの時代生きていけない。
- フィクション :「学歴の無効化」
これまでの社会は「学歴社会」であった。学歴社会は「学歴を個人の能力の評価基準として使える」社会である。
ところがここに,「日本的」と特徴づけられてきた従来型システムがつぎつぎに崩壊し,それぞれが自分の居場所で本格的な競争にさらされるようになってきた。
企業がいま求める人材は,与えられたシステムの中で与えられた仕事をきちんとこなせる人ではなく,不可視の状況の中で仕事を自ら企画・実行できる強さと力のある人。
そしてこの場合,学歴は人材の評価基準として使えないことがわかってくる。
学歴が人材の評価基準として使えないとなると,大学の意味が逆に問われるようになる:
「学歴を個人の能力の評価基準として使える」とき,大学で何が行われているかということは問われない。
大学の意味は,単純に4年間のモラトリアム期間。
実際,社会は学生の「4年間のモラトリアム期間」に寛容であり,そして大学も学生もこの寛容の中に安住してきた。それの顕著な現れが,「トコロテン式」と形容される大学運営。
大学が変わらねば,学歴は無効化する。逆に,時代の求める人材の供出に成功した大学の「学歴」は,ブランド力をもつことになる。
- フィクション :「IT社会」
テクノロジーの意義は,人の身体の弱さの無意味化,あるいは能力の増幅。
1日もかからずに太平洋を横断する,ミクロの世界や宇宙のかなたを目の当たりにする,高層ビルを建てる/破壊する──テクノロジーがこれらを可能にしている。
そして今日,ITの進歩でひとの能力はさらに飛躍的に高まっている。
例えば,身体に相対的に弱みをもつ人(身障者や高齢者など)が他の人と互角に仕事ができるようになツールおよび仕事領域を,ITは創出できる。
──ITは,指のわずかな動き,目の動きを使うなどして発信/表現/実現すること(仕事すること)を可能にする。人より優れたアイデアやコンテンツをもっていながら,これまでのメディアでは身体麻痺が障害になって発信/表現/実現できない人が,活躍できるようになる。
ITによって能力伸張がもたらされる一方で,それによって能力の差別化ももたらされる。すなわち,能力伸張を実現した者とそうでない者の差別化。たとえば,「ディジタル・ディバイド」。
どのテクノロジーの場合も,それの導入・利活用において,この種の差別化は起こる。しかしITの場合は,社会生活や生産活動での必須テクノロジーであると同時にパワーが絶大であるために,これのもたらす格差は深刻な問題になる。
実際,ITの導入・利活用は,実質的に強制されることになる。避けては通れない。それを導入しないと社会からバイパスをくらってしまうから。
たとえば企業では,ITを経営に導入しなければ,取引先から仕事がこなくなり,消費者からも見放される。個人でいうと,まったく仕事に使えない者になったり,協働でのボトルネックになったりする。
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