Up 土木部屋 (「たこ部屋」) 作成: 2024-01-15
更新: 2024-01-24


参考 :「タコ部屋」体験談 (樺太)

      『美唄市史』,1970. pp.672,673
     土工部屋における土工夫は,請負事業主の下で炭鉱開発,道路工事,灌漑溝開削等の工事に従事し,その過酷な労働条件や生活の状態から,土工部屋の名のほかに「たこ部屋」とか「監獄部屋」ともいわれ,終戦まで存在していた。
    美唄でもこれらの工事に土工部屋の土工夫が従事し,炭鉱の坑内作業などでは,坑道開削,掘進等の突貫作業,水現場などの悪条件を伴う箇所に投入された。
     作業内容は,工事によって異なるが,もっこかつぎ,トロッコ押し等の重労働であり,労働時間も大正8年制定の「労務者使用取締規則」に示された10時間は守られず,朝の2時から夜の9時まで働いたという例もあった。
     作業中は赤色の腰巻をまとうのが普通で,これは逃走防止のためといわれている。
    土工夫の監督には幹部 (棒頭) といわれる者が当たり,これらは作業遂行上の責任者でもあった。
     日常の生活も余裕がなく,毎日の食事の時間と月に1 回の公休日だけが唯一の楽しみであった。
    食事は1日4回取ったが,そのうちの2回は作業現場で取り,分量は不足しなかったが,質的にはそまつなもので,米飯に生みそという献立さえあったといわれている。
    また,下飯台,中飯台,幹部という差を設け,土工夫の身分によって食事内容も異なっていた。
    日用品は部屋で購入するようになっており,値段は非常に高く,それに引き替え賃金は安く,会計のときには大部分の者が(さが)りといって赤字の状態、で繰り越されていた。
     土工夫の中には,過酷な労働に堪えかねて逃走する者もいたが,たいていは追っ手につかまり,逃げ終える者はごくわずかであった。
    逃走に失敗した場合などは,悲惨な制裁が加えられ,死にいたることさえあった。
     また,幹部に反抗した場合なども同様で,特に美唄の光珠内においては,北海土功組合の灌漑溝工事の際,一人の土工夫が幹部に逆らったため,殺害されるという事件も発生し,犯人の幹部は札幌地方裁判所で有罪の判決を受けている。

    土木部屋の内部


      『美唄市百年史』,pp.413-416
     三菱美唄炭鉱の拠点である美唄川上流域には、北二ノ沢から七ノ沢にかけて幾つものタコ部屋があり、通称「タコ部屋道路」と呼ばれた (加藤三之助談・昭和49年)。
    大正6 (1917) 年に25歳で三菱美唄鉱に入山し、大正13 (1924) 年まで (三菱の) 北一ノ沢の長屋で過ごした佐藤雄三は次のように語っている。
        入山したころ、大きいのでは神田組があって、ちょうど炭山駅と(北)二ノ沢間の鉄道工事をやっていた。
    神田は美唄鉄道工事のとき入ってそのまま居ついたと聞いている。
    赤い腰巻きに棒頭がついてひどいものだった。‥‥‥
     大正十三年にいまの三井美唄に移ったが、ここでは成島組が有名で当時はかんがいこうをやっていた。
    これもひどかった。
    足に鉄ぐさりをしているのを一度だけ見たことがある。
    三井になってからますます大きくなった。
    大きな犬を飼っているのはどこも同じで,逃亡の話はどこでもよくあった。‥‥‥
     大正6 (1917) 年から8年にかげて70棟の長屋が建った [三菱の] 旭台では、土工から建築まで安達組が請負ったという。
    「困難な工事を短期日に仕上げただけに犠牲も大きく、タコが幾人も土台と一緒に埋められている。
    一号、二号の長屋にはその亡霊が現れるといって婦女子に怖ろしがられた」(「炭鉱の生活史」2集)。
    山を切り崩し、沢を埋めて建造物が建てられた三菱美唄炭鉱地域では、ほかの道路、炭住、学校などでもこの種の話は少なくなかった。
     ‥‥‥
    仮に死に到らしめても、罪を問われるのは直接加害者のみで経営者に及ぶことはなかった。
     ‥‥‥
    俸頭というのも土工夫で、タコ部屋の中では上飯台という格付けの一人である。
     ‥‥‥
    明け方から暗くなるまで働かされ、下飯台は一日4回の食事も立ったままでとるしきたりであった。
    棒頭になると上飯台といって管理人らと一緒に食事ができた。
    夏場の外の赤い腰巻きは、昭和5 (1930) 年ころから普通の作業着にかわった (木谷勇談・昭和60年)。  ‥‥‥
     建物は大正末期になると、広さが間口2、3間から7、8問、奥行6間から15間くらい、一部屋収容人数も70人以下に制限されて一応人間の住居らしくなったが (前掲『監獄部屋』)、3尺くらいの出入り口には錠をかけ、棒頭などが出入り口近くに就寝したり不寝番を立てて逃走防止を図り、「焼きを入れる」と称して、逃走をはかった者や病人に対し、あるいは棒頭の気分によって執拗な暴力行為におよぶことは昭和期に入っても変わらなかった。


    周旋屋
      『美唄市百年史』,pp.414, 415
     監獄部屋ともいわれた理由は、こうした監禁、虐待、暴行などをともなう部屋の運営にもあるが、一方で部屋に土工夫を送り込み暴利をむきぽる周旋屋の存在が大きな役割を担っていた。
    ポン引き、タコ釣りなどといわれる巧妙な手口で労働者を誘い込み、前借金を負わせてタコ部屋へ送り込む商売であった。
     木谷によれば、彼らはタコ部屋から「経費」と手数料を受け取り、人を集めると料理屋で遊興させてタコ部屋に送り込む。
    だが実際は経費は土工夫の前借金として負わされ、部屋に入ると支給される中古のはんてん、ももひき、たび、手ぬぐいなども高い前借金に加算されて6カ月間働かされる。
    幾ばくかの「上がり」(収入) を得て解放されても、一夜の酒色で使い果たし再び監獄部屋に舞い戻る者も少なくなく、「タコ」とはそのようなことからきたという。
     「周旋はもうかるからタコ部屋の雇われ帳場が同時に周旋をやることもある。
    そしてタコを回転させるほどもうかる仕組みだから、逃走をはかるタコは周旋屋に歓迎された。
    逃げる才覚と度胸のあるタコは入っても中飯台位にはなれるし逃げるスキもできる。つとめ上げてくるような者はいつまでたっても下飯台から抜けきれない」。

『美唄市百年史』. p.413 から引用
美唄川上流の土木部屋 (1928年)



同上. p.415 から引用
組織


部屋配置例