Up | 「ゾンビ」の教え | 作成: 2020-04-18 更新: 2020-04-18 |
(「オンデマンド」があるので,いまからでも見られる。) 個人的感想では,これはカミュの『ペスト』よりずっと良い。 設定もさることながら,『ペスト』のどうにも鼻につく辛気臭さとはまったく無縁である。 ゾンビが発生したら,政治はどう動くか。 政治は,事態解決の取り組みを「戦争」と位置づける。 「戦争」と位置づけるのは,超法規的措置をとれるようにするためである。 その超法規的措置は,ゾンビが出て来た地域を封鎖し,自壊させるというものである。 自壊を待つのは手ぬるいと見たら,その地域を空爆で全滅させるという措置になる。 この超法規的措置は,人心を動揺させるものになる。 ひとは,その地域の住民そしてまたゾンビに,自分を置き換えてみるからである。 そこで政治は,「ゾンビ発生」を隠蔽し,秘密裏に全滅を遂行しようとするものになる。 この設定は,「不条理」を主題化する。 その不条理は,<内と外の雲泥の差>である。 『ゾンビが来たから人生見つめ直した』は,<内の者>の主人公が空爆機が飛んで来るのを見上げるシーンで終わる。 (エピローグがあるが,これは無視とする。) 「反戦」とは,このような設定で考えるものである。 「反戦」は,外の者にとっては自家撞着になり,やることではない。 「反戦」は,内の者がやることである──意志からではなく,境遇から自ずと。 内の者は,<外>に自分たちを殺させないために「反戦」を立てつつ,内の者として生きることに向かう。 さて,「ゾンビ」の場合,「内の者として生きる」はどんなふうになるか。 「ゾンビになる」である。 ゾンビになるのみの状況においてゾンビになること,これは「進化」である。 実際,生物はこのように進化してきた。 以上の推論は,これを現前の「新型コロナ」に適用してみるためである。 適用すると,つぎのようになる:
ひとは,戦争を「敵との戦争」で考える。 しかし,「敵」は幻想である。 幻想を敵にした戦争は,理不尽なものになる。 「反戦」は,このことに「反対」するのである。 人が死ぬことに反対するのではない。 実際,「人命尊重」を唱える者こそ,戦争をやってしまう者である。 ──命は, 「尊重」など言ってはならぬものである。
東京都だと,東京都民は<内>,東京都庁は<外>である。
|