「構造をとらえる」は,「隠れているものを見えるようにする」ではなく,「そこには無いものを別につくる」である。
この意味で,対象の構成である。
こういうわけで,構造主義は構成主義である。
特に,構造主義のカラダは,構成主義のカラダである。
構成主義のカラダは,対象を<構成>の方法でとらえようとする。
<構成>が傾性になっているので,<構成>の手法が示唆・教唆されることに敏感である。
そして,それの吸収も速い。
数学の勉強は,それのいろいろな相で,構成の手法の勉強になっている(註)。
こうして,数学の勉強は構成主義のカラダをつくる。
例えば,専門数学のテクストは,そのままで「構成」のテクストである:
- 理論は,章・節・項のトリー構造で展開される。
この章・節・項の展開の仕方,そして番号を付け方は,他のどの学術分野よりも機能優先的である。
他の学術分野 (例えば,数学教育学) が 1, (1), ① のように番号を付けるところを,数学は 1,1.1,1.1.1 のように付ける。
こだわるところが違うわけである。
- 数学では,シェマは対象の構成である。理解を容易にするための図式といったものではなく,数学の対象そのものである。
数学のテクストも,シェマのこの意義を受けて,シェマを中心に据えるレイアウトする。
- 数学の文体については,いまさら言うまでもない。
主張を「命題」の形で示し,主張が受け入れられるべきことを「論証」の形で示す。
この文体自身が<構成>を示し,そして「論証」に示されるものも<構成>である。
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