Up | 数学のカラダ──構造主義 : 要旨 | 作成: 2010-07-17 更新: 2010-08-02 |
学校数学がつくることになる「よいカラダ」を,「数学のカラダ」と呼ぶとしよう。 「数学のカラダ」とはどのようなものか? これは,本来,多面的/複合的に捉えることを考えねばならない。 しかしそうなると,内容は余りにも拡がり過ぎ,そして漠然としてしまう。 また,「多面的/複合的」は,容易に表象主義に陥る。 実際,カテゴリーを用いる程に,表象主義に入り込んでしまうからである。 これらのことに注意しなければならない。 そこで,主要な面に絞ることを考える。 本論考の立場では,それは「構造主義のカラダ」である。 本論考は,「数学のカラダ」を「構造主義のカラダ」として主題化する。 そして,以下の論を立てることを課題にする:
「構造主義のカラダ」とは何か? 外見の違ったものに対し<同じ>を見てしまう──同じと見たものは,構造である。 このように反応するカラダが,「構造主義のカラダ」である。 数学は,形を主題にする。 この「形」は,構造である。 数学は,方法的に,形式主義/構造主義である。 もっとも,形式主義/構造主義は数学に限らない。 形式/構造に向かうのは,科学一般,学問一般,知見一般がそうである。 実際,それらは「本質指向」を唱えるが,このときの「本質」は「形式/構造」である。 しかしそれでも,数学の形式主義/構造主義は,抜きん出ている。 リアルに対し数学がその形式/構造を捉えようとする場合,リアルの分野は限定されない。 数学は,まったくのコンテンツ・フリーである。 これは,他の諸科学にはない特徴である。 このようなものとしての数学を学習すれば,自ずと構造主義のカラダがつくられる。 ただし,数学の分野によって構造主義の強弱はある。 また,数学の学習だけでカラダが構造主義になるわけではない。 構造主義は,それの応用対象として,リアルをもつ必要がある。 構造主義は,<教養>の姿をとってはじめて構造主義足りうる。 |