Up | 出口論に成長論を対置 | 作成: 2010-08-16 更新: 2010-09-20 |
「目的」による理由づけは,わかりやすい。 わかりやすいので,受け入れられる。 受け入れられるので,アタリマエになる。 アタリマエになるとは,ひとの習慣・癖になるということである。 しかし事実はどうかと言えば,現前は「目的」を理由にして現前しているわけではない。 例えば,人は目的を以て生きるわけではない。 単に生きるのである。単に,生きることをやめようとしないのである。 人は,目的を持って食べるわけではない。 単に食べるのである。単に,食べることをやめようとしないのである。 そして人は,目的を持って勉強するわけではない。 単に勉強するのである。単に,勉強することをやめようとしないのである。 この場合,なぜやめようとしないのかが要点になる。 やめようとしないのは,ひとがそのようなものだからである。 ここで,「やめないことで保たれているものは何か?」というふうに問題を立ててみる。 本論考は,これを「成長」であるとする。 すなわち,ひとは成長するようになっている。 したがって,「生きる」「食べる」「勉強する」をやめない。 そして,このときの<やめない>は,<やめることができない>とイコールである。 学校は,一定の<成長>が実現されるよう,ひとの勉強を組織化する装置である。 併せて,この組織化では勉強を効果的・効率的にすることが目指される。 そしてこのことが,「社会的」という性格をもって行われる。 こうした学校での勉強を,ひとは自らやめようとはしない/やめることができない。 ひとが学校数学を勉強するのは,これが学校の勉強だからである。 そして,学校の勉強をやめないという意味で,学校数学の勉強をやめない。 そこで,つぎのようになる:
この結論は,常識的には「非常識」である。 しかし,本論考はこの結論を是とする論をつくろうとする。 言い回しの簡単のために,この論を,「出口論」に対して「成長論」と称することにする。 学校数学を出口を以て理由づけるのが出口論であり,成長を以て理由づけるのが成長論である。 成長論を立てることは,出口論を退けることである。 よって,本論考は,成長論を立てることと出口論を退けることを互いに関連させながら行うことになる。 |