学校数学出口論と学校数学 (体系) の間には,つぎの関係が認められる:
- 現前の出口論は,出口論の側に立ち,そこから学校における数学の指導内容・指導方法を臨む格好になっている。
このとき,授業・指導課程は<数学で>で発想される。
そして,<数学で>は,学校数学 (体系) をつくれない。
- 現前の指導内容 (数学の体系) の側に立ち,<数学を>に一般陶冶の意味づけを与える出口論を臨むとき,この出口論は「成長」のとらえが先ず課題になり,そしてそこで不可知論の趣きになる。出口論の企画は,最初の一歩のところで早くも頓挫してしまう。
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つまり,出口論と学校数学は,<数学で>も<数学を>もうまくいかないという内容で,一方を立てれば他方が立たない関係になっている。
学校数学は,一般陶冶である。
「実際に使わない」は,「無駄」を意味しない。
すなわち:
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学校数学は成長と関わる。
これは,<実際に使う>とは別のことである。
──これが,学校数学が一般陶冶であるということの意味である。
特に,<数学を>が一般陶冶の形である。
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本論考は,この論の構築を課題にする。
構築しようとする論では,「学校数学は成長と関わる」と謂うときの「成長」の論が核心になる。
しかし,ことばというものは,この「成長」を述べるようにはなっていない。
このことばの無力の問題を何とかしなければ,「成長」の不可知論にとどまることになり,「<数学を>が一般陶冶の形」の論は始まらない。
本論考は,この構造を押さえた上でなお,「<数学を>に一般陶冶の意味づけを与える出口論」を課題に立てようとするわけである。
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