Up 本論考の立場 :「数学」(実質陶冶) で一般陶冶」 作成: 2009-11-17
更新: 2011-08-13


    本論考は,つぎの立場をとる:

    A1. 数学教育は,「学習が役に立つ」の意味を「数学を実際に使う」にしている限りでは,保てない。 数学教育を理由づける形は,「一般陶冶」である。 そして,数学教育が一般陶冶になるという命題は,真である。
    数学の学習は,これが一般陶冶になるという意味で,学習した者の役に立つ。
     2. 数学教育が一般陶冶になっていることを論ずるのは,難しい。
    B1. 現前の《学校数学の出口論から出発して学校数学に向かう》では,出口論がそもそも指導課程を導くようなものになっていない。 実際,指導課程はいつまで経っても実現しない。
     2. 出口論がそもそも指導課程を導くようなものになっていないのは,出口論の考え方・つくり方に根本的間違いがあるからである。


    「学校数学から出発して出口論に向かう」では,「数学を勉強して何の役に立つ?」の問いに対する答えは,(さきのa, b, c のようではなく) つぎのようになる:
    1. 将来数学を実際に使うことになるかどうかは,数学の勉強と関係ない。
       数学の勉強は,<実際に使う>とは別の意味で役に立つのであり,必要なのである。

    また,「出口論から出発して学校数学に向かう」に対しては,つぎのように問題をとらえることになる:
      出口論として,実体のない話をつくっている。

    「実体がない」とは,ことばに具体的指導課程が対応していないということである。
    ことばを操っていると,そうとは知らずに実体のない話をつくってしまう。 出口論は,ことばの世界で独り歩きする──<無意味>の独り歩き。
    無意味な文言の課題を立てそして,「無意味」と「難しい」が混同される。
    しかも,社会は,この実体のない話に逐一そして過剰に反応していく。