Up | 「道具」は「なぜ学校数学か?」の答えにならない | 作成: 2009-09-08 更新: 2009-09-08 |
道具の「役に立つ」は考えやすいので,学校数学の<役に立つ>も,ひとは道具のアナロジーで考えるようになる。 この道具のアナロジーの含意を,考えてみる。 含意その1: 学校数学の「役に立つ」を道具の「役に立つ」にするとき,学習した数学は,道具として使えたら「役に立つ」,使えなかったら「役に立たない」。 そこで,
しかし,社会全体では数学を使える人が必要になり,それがだれになるかわからないので,みんなに学習させているのだ。」
ただそれを認識していないだけだ。」 含意その2: 道具のアナロジーでは,学校数学の「役に立つ」──例えば,高校数学で習った「行列」の「役に立つ」──は,つぎのようにイメージされるものになる:
これを道具として使う。 よって,「道具として役立つ数学を,アタマの引き出しの中にいろいろ・たくさん揃える」が,「数学学習」の意味になる。 引き出しの中の数学が貧弱であったり,数学はあっても使い方が下手であることが,「数学が不得手」の意味になる。 そして,学校数学の<役に立つ/立たない>の問題は,引き出しの中の数学が果たして実際に使われることがあるのかという問題のことになる。 「科学的思考」は,西洋哲学の伝統であるイデア論の流れをひく。 イデア論では,イデアが実体のことになり,そして実体であるイデアは言語に写像されている (表象主義)。 よって,この思考法に慣れている者にとっては,「アタマの中の引き出し」とか「引き出しから取り出して道具として使う」は,単純に比喩ではなく,実体的な意味をもつものになる。 実際,表象主義は,認知科学でも主流である。 数学教育学のいまは主要な分野になっている「問題解決ストラティジー」論とか「メタ認知」論は,表象主義の認知科学の一分科である。 表象主義の認知モデルは,つぎのようになる: しかしこれは,主体の分裂・主体の所在というアポリアを導く。 また,ファイルの出し入れのようなのは,実感としては無いものである。 「引き出し」のアナロジーも,保てるものではない:
これまでの蓄積の上に,新しい積み上げが可能になる。 「引き出し」をいうならば,それはこれまでの蓄積のことである。 そして,蓄積が転じて成るところの引き出しとは,要するにカラダである。 結局,カラダしかない。 以上のことを踏まえた上で,本論考はつぎの立場をとる:
学校数学の<役に立つ>は,<経験→傾向性→機能>モデルで考えるところとなる。 いまのコンピュータは,フォン・ノイマン型と称される。 コンピュータの機能を,プログラムで実現する。 これは,脳を表象主義 (言語写像論) で実現するということである。 このフォン・ノイマン型に対して,「コネクショニズム」という設計思想が一時盛んに論じられた。 このコンピュータは,経験によって傾向性をつくっていく。 そして,傾向性の発現が「機能」ということになる。 このモデルは,人の脳をモデルにしたものである。──実際,ニューロコンピュータを目指している。 翻って,成長や学習のモデルを実感的なものにしようとすれば,それは自ずとこういったものになる。 <経験→傾向性→機能>モデルは,実感的である。 では,実感的であるのになぜモデルとして使われないのか? それは,このモデルでは論をつくれないからである。 ──論をつくるときは,表象主義に寄り掛かる。表象主義を退けるモデルでは,論をつくれない。 本論考は,この<論をつくれないモデル>での論づくりを,試行することになる。 |