Up 主体性の育成 作成: 2007-10-04
更新: 2007-10-08


    メソッドは,以下のバランスをとるという形で決められる ( メソッドの決め方):

    1. 一つのメソッドを行えば,それから外れる個が必ず出てくる。
    2. どのように教えるかは,どのように育ってもらうかである。
    3. 教授/学習効果
    4. 主体性の涵養
    5. 功罪


    例として,学校教員養成課程の学生に対する指導メソッドはどうなるか,考えてみる。

    数学教育に関しての学校教員のいちばんの問題は,むかしもいまも,「主題研究の面で主体的になれない」である。 主体的になれないので,主題研究ができないし,著しくは主題研究は必要ないと思う。

    「主題研究の面で主体的になれない」のは,大学においてこの能力/傾向性の陶冶がされなかったからである。 そして,「できなかった」とは,「できるようになる機会に恵まれなかった」ということである。

    主体性の陶冶がされないまま大学を出て教員になってしまうと,後ずっと,自分で主題研究ができない教員 (主題研究は必要ないと思う教員) を続けていくことになる。 (職業がら現職教員の 10年目研修を毎年担当しているが,研修生教員に「大学を出てから数学に触れてみたことがあるか?」 と聞くと,中学で数学を教えている者も,あっけらかんに「ない」と答える。これが現状である。)

    主体性陶冶の指導は,基本的にはつぎのようなものになる:

      教師:自分でやれる人間になりなさい。
      学生:どうしたら自分でやれる人間になれるんですか?
      教師:いま与えている課題は適当な修行素材だから,
         まじめにこれに取り組んでみなさい。
      学生:でも,この課題ですが,どうやって手をつけたら
         よいかわからないのですが‥‥
      教師:すべてひっくるめて,自分でなんとかしなさい。
         それが,この課題です。


    つぎに,<自分でやれる教員>は自分の生徒にどんな授業をすることになるか,これを考えてみよう。

    例えば,小学校で「二等辺三角形」を教えるとする。
    教科書には,「二辺の長さが等しい三角形が二等辺三角形」と書いてある。
    <自分でやれる教員>は,つぎのように考える:

      「二辺の長さが等しい」が一体なんぼのもんだろう?
      現に,二等辺四角形なんて取り上げない。
      「二等辺三角形」の意義は,「線対称な三角形」である。

      学問の方法は対象の構造化(「どうやってつくれるか」の視点からの解釈)だが,「線対称な三角形」はどうやってつくれるか?と考えたときに「二等辺」が出てくる。

      よって,指導のロジカルな流れはつぎのようになる:
      1. 「線対称な三角形」の類化
      2. 「線対称な形」の概念(三角形からのはみだし)
          ──クリスマスツリーなど
      3. 「線対称な三角形」のつくり方 (「 二等辺」へ)

    これが,主題研究。
    つぎに指導法だが,根本は,教員養成課程学生の場合に述べたのと同じである。 すなわち,
      すべてひっくるめて,自分でなんとかしなさい。
    が生徒の程度に応じて変わるだけである。
    教師は,つぎのように考える:
      どのくらいの形で丸投げするのがいいか?

    そして,例えば,線対称とそうでない三角形を混ぜて示して,つぎのように指示する:

      「自分で思った通りに仲間分けしなさい。
       そのとき,どんな理由で仲間分けしたか,
       はっきり言えるようにしなさい。」

    そして,考えさせる・意見を言わせる・議論させるに 20分くらい使う。 ──教師はこの間,「線対称」へと導く策略的なコーディネータをやる。
    それからつぎに,「線対称な形」を三角形からはみ出したところでやる。

    この授業時間では,「二等辺」は出さない方がよい。
    形の意義づけと,その意義づけた形の構成/実現は別の主題であり,このことを授業時間を別にするという形で明確にする。
    また,実際,形の意義づけだけで1回の授業を丸々要することになってしまう。

    以上は,新しい概念の導入の授業 (what の授業) だが,この後に,why (「なぜこれが大事」),そして how (「どう使う」) の授業が続いて,一つの単元が終わる。

    指導法は,それぞれのフェーズで,自ずと変わる。 一つの型を示せるというようなものではない。
    実際,一つの型を示そうとすれば,その言い方はひどく一般的なもの言いになってしまい,「一つの型を示せるようなものではない」と言うのと大差ないものになる。
    <自分でやれる教員>であるとは,このケース・バイ・ケースにも対応できるということである。