Up | 授業に<よい・わるい>は,無い | 作成: 2015-02-12 更新: 2015-02-12 |
著しくは,正反対になる。 これは,授業に<よい・わるい>が無いことを意味する。 授業に<よい・わるい>は,無い。 有るのは,評価する側の立場の違いである。 数学教育は,文字通り,数学と教育のドッキングである。 ここに,数学の立場と教育の立場がある。 そして二つは,正反対のものになる。 「数学がわからない・できない」についての数学の立場は,つぎのものである:
「指導法」についても,数学の立場はつぎのものである:
教育の立場は,「学習」を「活動」にする。 数学の立場だと,「学習」は「活動」ではない。 「学習」を「活動」に定める教育の立場は,活動主義に進む。 即ち,活動を授業の目的に定める。 これに対する数学の立場は,「数学がわかる・できる」を目的に定め,「活動」はこれの実現の方法というとらえになる。 そしてこのときも,「活動」は重要視されるものではない。 例えば,「まわりと話し合う」は,教育の立場では授業のメインであるが,数学の立場では,これはあり得ないものになる。 教育の立場の「活動を授業の目的に定める」の意味は? 活動主義は,活動能力の陶冶を教育の目的に立てる立場である。 数学教育だと,「数学的○○」(「考え方」「問題解決」「リテラシー」) の陶冶を数学教育の目的に立てる。 数学教育は数学と教育のドッキングであるが,しかしこれの意味は,つぎのようではない:
水と油はまじわらない。 「中庸」「中道」は,水と油をしっかり立てる立場である。 翻って,一般に教育のダメな論は,「水」と「油」をわかっていないことがおおもとである。 |