Up | 必ず,奇想天外・間抜けをやる──その構造 | 作成: 2014-09-05 更新: 2014-09-05 |
もっとも,現職教員の算数・数学科の授業も,これと同じである。 わたしの授業も,これと同じである。 わたしは,ずいぶん最近まで,これを構造的な問題として捉えることをしなかった。 自分では構造的な問題として捉えているつもりでも,実践論に回収していた:
「こういう修行をしなければならない」 いまわたしは,こういう物言いをしない者になっている。 すなわち,つぎのように言う者になっている:
「理由は,構造的なものである」 「この構造は,含蓄が深い──これを理解することは,人間を理解することである」 授業をつくる者は,自分を優秀な者に看做している:
「自分は,授業づくりの中で,正しい指導法を編み出す者である」 「自分は,授業を通じて,相手を<わかる・できる>に導く者である」 「自分の授業を通じて<わかる・できる>にならなかった者は,<わからない・できない>者である」 自分の授業について反省的に思うとしたら,せいぜい,「うまい」に対する「へた」である。 「奇想天外・間抜け」ではない。 実習生も現職教員もわたしも,授業づくりするときはこうである。 高校生に小・中学生対象の授業をつくらせても,こうなる。 「うまい・へた」は考えても,自分のことに「奇想天外・間抜け」は思わない。 皆がみな「奇想天外・間抜け」をやっていて,しかし自分についてはこうではないとしている。 これは,改めて考えれば,不思議なことである。 なぜこうなるのか? 「奇想天外・間抜け」をやるのは,このときの「正しい」を知らないからである。 「正しい」を知らない者が「正しい」を編み出せば,それは「奇想天外・間抜け」になる道理である。 不思議なのは,なぜ自分のことを<「正しい」を編み出す者>に最初から看做しているのか,である。 例えば専門数学に対してだと,自分を<「正しい」を編み出す者>に看做すことはしない。 算数・数学科の授業だと,自分を<「正しい」を編み出す者>に看做す。 この違いのもとは,何か? つぎの思いということになる:
算数・数学科の授業をつくるのは<常識>」 その<常識>は,自分のこれまでの経験が醸成したものである。 実習生は,実習生同士協力して授業をつくるということをする。 それは,互いの<常識>を付き合わせるという作業である。 人は,<常識>で振る舞えない領域に対しては,ある程度の専門性を身につけるまでは主体的になれない。 逆に,<常識>で振る舞える領域と捉えたものに対しては,主体的になれる。 翻って,主体的になれるために,問題領域を<常識>で振る舞える領域にみなす。 《主体的になれるために,問題領域を<常識>で振る舞える領域にみなす》は,人の<生きる>の含意の一つである。 <生きる>の含意であるから,絶対である。 こうして,つぎの結論になる:
奇想天外・間抜けは,算数・数学科の授業の要素である。 現に,学校数学は,このような授業で回っている。 このことで,不具合は生じない。 逆に,奇想天外・間抜けへの拘りの方が,不具合を生む。 人の営みとしての学校数学は,現前で完成している。 これ以上は無い。」 |