Up | はじめに | 作成: 2012-01-16 更新: 2012-01-16 |
この論争は,つぎの二様の思考回路の間の論争である: 「1あたり量 × いくつ分」の出自は,遠山啓である。 Aの論拠は,「遠山啓がこれを示した」しかない。 この意味で,Aは遠山主義/イデオロギーである。 Bは,「「1あたり量 × いくつ分」の順序に必然はない」を「かけ算に順序はない」に短絡する者である。 この短絡は,「かけ算の順序」の数学を知らないためであり,そして論理学の初歩になる「よって」の使い方を知らないためである。 論理学/数学の無知が転じた《自分は正しく考えることを行った;よって自分の出した結論は正しい》でもって,「かけ算に順序はない」を主張する。 ──この意味で,Bはモンスターである。 こうして,「かけ算の順序論争」は,遠山主義対モンスターの論争ということになる。 しかし,実際には「論争」と呼べるようなものは,起こっていない。 モンスターが一方的に主張し,そしてこれに返す者がいないというのが,この「論争」の実態である。 そしてこうなるのには,理由がある。 モンスターへのリアクションの役回りは,遠山主義にある。 しかし,遠山主義はモンスターの論難「「1あたり量 × いくつ分」の順序に必然はない」に対し「それは違う」を返すことができない。 遠山主義の根拠は,唯一「1あたり量 × いくつ分 を遠山啓が示した」である。 しかしこの根拠をことばにすれば,遠山主義を遠山教にしてしまうことになる。 そこで,遠山主義が言説として現せることは,モンスターの論難への反論ではなく,考えているポーズ,遠山の言説を調べているポーズを示すことだけ,というふうになる。 しかしこの中で,《「1あたり量 × いくつ分」の順序は遠山においても理由がない》という考えにどうしても至る。 そしてこの先にあるのは,「遠山も,1あたり量 × いくつ分 でなければならないとは言っていない」のエクスキューズをつくり,「かけ算の順序にこだわらねばならないということはない」のような形で自論を閉じ,「論争」から撤退する──である。 ただし,「論争」からの遠山主義の撤退は,これで「論争」がやむということではない。 実際,モンスターの矛先は,学校数学/文科省/学校現場である。 遠山主義がモンスターの論争相手の立場に立たされるのは,学校数学/文科省/学校現場が遠山主義の「1あたり量 × いくつ分」を択っているためである。 「論争」の実態は,ダンマリの学校数学/文科省/学校現場 対 モンスターである。 モンスターの論難に返すことになるものは,数学である。 また,この数学は,遠山主義に対しても返していくことになるものである。 <数学を以て返す>は,学校現場からは起こらない。 教員養成の現実として,学校現場は数学を持っておらず,そして数学をこれから持つようになる契機もないからである。 文科省も,数学をもってはいても,<数学を以て返す>をするところではない。 これまで「1あたり量 × いくつ分」をやってきており,そしてこの惰性を続けるしかない力学が,そこには働いているからである。 以上が,現前の「かけ算の順序論争」の概観である。 本論考は,<数学を以て返す>の「数学」を明示しつつ,以上述べた内容を段階的に詳らかにしようとするものである。 全論考は,つぎの構成になる:
なお,以上のテクストは,PDFオンラインブックの体裁でも提供される。 |