Up | 規約作成の意味 | 作成: 2006-01-20 更新: 2006-01-20 |
これまで適当にやってきた大学運営に対し「それではだめだ」と外から言われて,規則でガチガチに固めることを始めた。 「適当にやる」に内在する問題の解決は,「規則でガチガチにする」ではない。 いま改めて,「規則でガチガチにする」の意味を押さえるとしよう。 「規則でガチガチにする」は,「トラブル/犯罪を未然に防ぐ」から出てくる形。──つまり,これの以前には,トラブル/犯罪があったのだ。 説明責任 (accountability),規則遵守 (compliance),情報開示 (disclosure) も,「トラブル/犯罪を未然に防ぐ」から出てきたものであり,トラブル/犯罪がこれより先にあった。 日本の文化は,「適当にやる」の方。これに対して,「何でもかんでも規則」が,アメリカ。これは,<他者>のない日本と<他者>ばかりのアメリカの差。 ちなみに,グローバル化とは<他者>を相手にすること。よって,グローバル化は「何でもかんでも規則」を伴う。 「規則」は,自分を守る目的で他者に対して作る。 しかし,他者は意表外の仕方で自分を困らせてくる。そこで,「規則」を緻密化する。これの繰り返しで,規則はどんどん大きく複雑になっていく。 規則は無いに越したことはない。──不都合に対して規則が起こる。不都合がなければ規則は起こらない。「不都合がある」と「規則が起こる」は同値。不都合は無いに越したことはない。よって「規則は無いに越したことはない」。 規則を考える上で最も重要なことは,「規則の整備・増強」を (「何かいいこと」のようにではなく) 「グロテスクなこと」と感じ,規則が無用となる組織の実現を意志すること。
何とも情けない姿だが,成績評価に対する潔癖性が大学の組織風土になるまで,これは続けるしかない。(§「悪貨良貨駆逐」の構造) 「何でもかんでも規則」は,「適当にやる」の阻却。「裁量」を抑制する。 実際,「何でもかんでも規則」は,性悪説の立場。性悪説の立場では,「裁量」は「悪いことをする」と同じ。 「適当にやる」の文化にも「何でもかんでも規則」の文化にも,それぞれ良いことと悪いことが表裏になってある。 法人化以降の北海道教育大学は,「適当にやる」の悪いことを温存して「何でもかんでも規則」の悪いところをとる。すなわち,心の<卑しさ>を残しつつ,ものごとの形骸化を進める。──知の府の大学のやることとして,信じられないほど愚劣だが,これが実態だ。 例えば,CAP 制。 単位をだらしなく出す教員がいるから,勉強の意味をはき違え,ばかのように単位をとる学生が出てくる。CAP制の効用は,単位をだらしなく出す教員の温存。だれでも知っていることだが,だれも口に出さない。 例えば,「学生の不利益」という問題の立て方。 「学生の不利益」は,現場性悪説を含意している。「学生の不利益」をさせないよう現場を規制・管理しようというのが,「学生の不利益」の主張。「消費者は王様」の如く「学生は王様」。 本当は,大学生とは,大学で性根を入れ替えさせなきゃならない存在のこと。学生や事務が「学生の不利益」と思うところにこそ,「学生の利益」の現場の教育的配慮/計算がある。そしてこの教育的配慮/計算を行えば,「適当にやる」になる。 教育とは,もともと,「いまはやらされる意味がわからなくても,だまされたと思ってやれ,後になってやってよかったになる」というものだ。 このやり方ができなくなるというのは,専ら,教員,学生,そして社会の資質の低下にある。 例えば,シラバス。 シラバス作成は,大学教育の真の姿とは何の関係もない。 能力的/経験的に劣る教員も何とか大学教員をやっていけるようにというので,「シラバスを作ることからやってみたらどう?」「学生のためというより自分のためにやってごらん」というのが,ほんとう。しかし,「一部を目立たせるのはまずい」という配慮から,全員を付き合わせるために「シラバス作成の義務化」を打ち出し,さらに全員を付き合わせる装置として「提出しない者への懲罰」も考え出す。 現場性悪説は,「悪い部分をそれのみでとりあげ合理的に解決する」ということをせず,全体を一律に規制しようとする。 問題の根本は (薄められることはあっても) 放置され,規則だけが独り歩きする。 大学教育の正しい姿は,「適当にやる」の方。ただし,「適当にやる」に乗じて<けしからんこと>をする者も出てくる。そのときは,その者だけを厳格に処分する。「そのような者が将来また出てくることを防ぐ」というスタンスで,全体を不自由にするような規則をつくるのは,最も愚劣。 大学改革で最も大事なことは,「適当にやる」を堂々と主張し,それを行うことだ。
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