Up If we build it, they will come. 作成: 2006-01-09
更新: 2006-08-16


    大学の現状ないしあり得べき形から遊離した点取り主義は,自ずとチェックがかかりそうなものだが,現実はそうはならない。 理由の一つは,"If we build it, they will come." 調で,計画や箱がつくられるためである。 (「わたしが計画・箱をつくれば,だれかが計画・箱の中身を埋める仕事をする」)

    しかも,顔のない「だれか」が相手なので,コスト (時間・労働量) 無視で仕事をつくり,現場に降ろしてくる。
    そして,この仕事を現場で見せられる方も,内容がいっぱいでとても自分の負えるものではないので,「わたしではないだれかがやるのだろう」のような受け取りになる。自分にあたってしまったときは,「適当に不作為する」というやり方で現実的に対応する。

    こういうわけで,「点取り項目はいろいろ並んでいるが,個々の内容はおそろしく貧弱」という結果になる。
    以下,この構図を少し詳しく見ていくことにする。


    点数集めは,<浅薄>の点数集めに向かう (§ 点数集めと教育·研究軽視)。そして,<浅薄>への感覚麻痺をもたらす──当初テクニカルな対応のつもりであったものが,体質になる。

    点数集めの構造は,つぎのようになる:



    例として,北海道教育大学学報, No.487 (2005-12) を見てみる:


    特徴的なのは,枠組み作りが成果のように示されていること。


    本来,枠組み作りの後は中身を埋める仕事が続かねばならない。
    中身を埋める仕事を担当するのは,現スタッフだ。
    この仕事を担当するためには,本務 (教育・研究) を割り引かねばならない──新しい仕事を引き受けるために,本務のどこかを減らす。
    枠組み作りは,このように,トレードオフ/資源再配置を含意する

    枠組みを作る者が同時に中身を埋める者である場合は,(無理をして被害を受けるのは本人なので) 枠組み作りは合理的な計算の上に行われる。
    問題になるのは,枠組みを作る者が,自分では<中身を埋める>に携わるつもりはなく,中身を埋める者を勝手に漠然と当て込んでいる場合。


    枠組み作りを担当する者は,能力的につぎの条件を満たす者でなければならない:

    1. 中身を埋める仕事を具体的に (特に,仕事のコスト──時間と労力──について) 考えることができる。
    2. 中身を埋める仕事を引き受けるスタッフの担保を,きちんととっている。
    3. 上の2つの意味を含め,想定しているタイムスパンでプロジェクトを継続できることに,計算が立っている。

      註: プロジェクトを立ち上げることは造作ない。問題は,実質的な継続。
      深い思慮なしに立ち上げられたプロジェクトは,ただ「負担/つけを後に回す」といった体で (止めるに止められず) 続くことになる。

    実際,この条件を満たしていない者が枠組み作りに走ると,つぎのどちらかになる:

    1. 中身を埋める者を実質的に配置できた場合
        資源を本業から割くことになるので,本業の劣化を招く。
    2. 中身を埋める者を実質的に配置できなかった場合
        プロジェクトの名前だけが残る──組織の負担として残る。

    実質的に」というのが,肝心なところである。 担当者に名前が貼り付いていることは,仕事が機能していることとはまったく無関係。

      註: 実際,プロジェクトは,担当者の変更のところで大きな危機を迎える。プロジェクトの当初の意図,意義,歴史を新しい担当者に引き継ぐのは至難。モチベーションとは無関係に「担当を回す」ことをやれば,プロジェクトはそこで終わる。(逆に,プロジェクトを終わらせたければ,この手法を使えばよい。)


    北海道教育大学の執行部は,大学評価の点数集めにおいて,「枠組みを作る者」の条件 (上述) を満たさない態で枠組み作りに走っている。 そして,気兼ねの組織風土 (§ 気兼ね・無責任の精神風土) が禍して,大学スタッフはこれにきちんとチェックを入れることをしない。
    これは本業 (教育・研究) 破壊であり,北海道教育大学においていま最も深刻な問題は何かと言えば,これである。