Up 肝心の文化人類学が,空白 作成: 2017-01-02
更新: 2017-01-02


    アイヌ学の中心は,文化人類学である。
    そして現前の「アイヌ学」は,この文化人類学が空白になっている。

    どうしてこうなのか?
    こうなる事情がある。


    文化人類学を構築するものは,アイヌの生活・生態・思考様式を調査するフィールドワークである。
    フィールドワークは,アイヌの生活・生態・思考様式が現前しているうちが,勝負である。 ──アイヌの終焉は,フィールドワークの終焉である。

    文化人類学のフィールドワークを行えるためには,最低つぎの2つの条件の充足が必要になる:
    1. アイヌの生活・生態・思考様式があった時代に生きた
    2. 文化人類学の方法論を知っている

    アイヌは,幕末・明治期の和人入植で滅亡一途のステージに入り,『北海道旧土人保護法』でとどめを刺される。
    これより前の時代は,松前藩のアイヌ地立ち入り禁止政策により,アイヌ地に入ってアイヌを調査できるのは,幕府が派遣した者に限られる。
    こういうわけで,アイヌのフィールドワークは,もともと成立の余地が無かった。


    バチェラーは,アイヌについていろいろ調べ,著作をのこしているが,位置づけは「フィールドワークに近いことをやった者」ということになる。
    そして,「フィールドワークに近いことをやった者」は,みな外国人ということになる:

    和人の「アイヌ調査」は,「北方紀行」「北方風物誌」「北方事情」「アイヌ語」「政策」が内容であって,文化人類学の趣きのものは無い:
    そして,文化人類学の知見を得て「アイヌ」に関心をもったときは,既にアイヌは存在せず,「後の祭り」となる。

    「フィールドワークに近いことをやった者」が外国人に限られるのは,なぜか。
    外国人は,アイヌを「よその者」と見るスタンスになる。
    一方,和人は,(もともと「文化人類学」の思想を持たないということもあるが,) アイヌを「隣人」と見るスタンスになる。
    「よその者」は,利害関係の発生しない者である。
    「隣人」は,利害関係の発生する者である。
    「よその者」の研究は,文化人類学になる。
    「隣人」の研究は,文化人類学にはならない──政治・経済学,倫理学になる。
    ちなみに,「自分」の研究は,文学になる。