Up | 学校数学は「何でもあり」 | 作成: 2012-08-24 更新: 2013-06-28 |
そしてこれの最も根源的な問いになるものが,生徒の側からの「学校数学の勉強は何のため?」である。 その問いは,つぎの問いである:
この問いに対する答えをつくろうとするとき,ただちにつぎの問題に突き当たる:
先ず,数学の授業が,<数学を教える>になっていない。 実際,数学を教えることは,学校教員にはできないことである。 教員は,自分のできることを「数学の授業」として行うことになる。 教員は,自分本位で授業をつくるのみである。 そしてこれは,数学の授業の「何でもあり」,学校数学の「何でもあり」に通じる。 学校数学は,出口論がこれをリードする格好になる。 出口論は,出口を「生きて働く力」に定める。 そして,この出口を実現するところの「学校数学」を,「生きて働く力」単元の構成と定める。 このとき,「生きて働く力」単元の具体的内容 (「何をどう教えるのが,これの授業か?」) は,棚上げにすることになる。 この棚上げが,学校現場への丸投げになるとき,数学の授業の「何でもあり」,学校数学の「何でもあり」模様になる。 そして,そもそも学校数学は,何かの目的達成のために存在しているのではなく,人の生活の系として存在している。 そこに棲む者にとって,学校数学は所与であり,自分の生活の場である。 ここで,自分の生活は,自分の周囲との調整である。 このメカニズムは,全体として,生活の「何でもあり」を現すことになる。 これは,学校数学を「何でもあり」として現すことに通じる。 学校数学がこうして「何でもあり」となるとき,問い「学校数学の勉強は,自分にどんな得がある?」は,つぎの問いになる:
「学校数学教員」論 (4部構成) |